私を嫌いな人種を考える

私。は私をかなり考えている。

私が楽しいとか、幸せとか、辛くないとか、そう言う事は殆どジャッジの最後の方にある。

人に迷惑をかけないこと。傷つけない事。集団の利益に成る事。

これを前提とした、その上での私がいる。

 

つまり私の幸福は、私をとりあえず置いて置く事から始まっている。

そしてそれを不幸だと嘆いた事もあったが、最早これが私だと。
受け入れてしまった。

 

そして、私は私が嫌いな人種も当然いるという事を知っている年齢に成っている。

それを嘆いた事もあったが、20代後半は「まあ、いるだろう。そういうヤツも。」となって、今は「どこが嫌なんだろう」に至る。

 

悲しいから改善したい訳ではなく、私の幸福への理念に反しているなら

改善すべきだと思った。

まあ、「顔が嫌い」とかそういう理由の場合、整形と秤にかけて大体は「彼の人に好まれる為に、この顔面を改造するのは不可能だ」となるのだけれど。

 

それはひとつ、私は私主体となって独善的によくなってしまう。

例えば、具体的に、期待される事が私は嬉しい。

だから、人を紹介する時、期待を持って欲しくてついつい煽ってしまう。

結果、その人に過度なプレッシャーを与えていると、物怖じしない後輩にたしなめられた。

素直に、「なんて自分はデリカシーがなかったんだ」と猛省した。

本当にアレは、自分勝手な行動過ぎて恥ずかしかった。

 

きっと私の事が嫌いな人間は、私の土台の幸福に対するモノサシが結局私の独善性からのモノだと解ってしまい、それが偽善的に見えて嫌悪するのか。と、思った。

 

この歳で、私を嫌いな人をイラッとさせる部分に、正直にストレートに突っ込んでくれるこの後輩を、私はとてもありがたく思う。

 

色んな人がいると、また解らせてもらえるのは、未熟な自分にとってとてもありがたい。

世界平和への選択

たまに想像する。

あの時別のルートを選べたかもしれない。

結果を具体的に夢想する。

多分、父親に敵うヤツなどままいない。

 

だから今の伴侶を選んだ。

その理由を3年前に世界平和だと名前を付けた。

 

金じゃない。権力じゃない。マウンティングの知恵じゃない。

私の「なんで?」に全然違う人生から、答えられたから選んでみた。

 

それを世界平和だと言った。

三年前の自分の語彙力とセンスの無さをたまに殴りたくなる。

 

どの分岐でも。

ドラマの様な言葉を

色んな事に諦めてもいいかもしれないと思えるタイミングで、冗談みたいな台詞を吐かれて、そこに留まる事が増えた。

 

それを夫に話したら「ドラマみたいな人生だね」と、意図は解らず返された。

 

前も話した通り、私はどうにも、物語の生き物の様な人間らしい。

 

それが他人にもバレているのかもしれない。

だから、ドラマの様な台詞を以て私を利用したいだけなのかもしれない。

 

大嫌いな男が私に既知で今更で当たり前の根性と夢を説く。

私は薄い笑顔を携えて、いつか旅に出る事を計画する。

けれど、その都度その場の誰かが、ドラマティックに私を引き止める。

 

それで納得するのは、やっぱりバレているのかもしれない。

この性質や本質や。

 

物語の住人だと思った事などないけれど、ソレを本気で言える人間を捜していたのかもしれないなと最近よく思う。

 

物語はドラマではあるけれど、本質は希望だから。

あり得ない希望を解りながら説得する事で、仲間が欲しいのなら。

喜んでそこに向かいたい。

凄いのはあなただ

マウンティングという行為そのものが苦手である。

要は、競争ってのが苦手だ。

 

例えば、走るのが一番とか、絵の写実性が一番とか。

そういう、解りやすい具体性の競争は愛おしい。

 

私が苦手なのは、社会における所謂交渉や、甘えたり、怒鳴ったり、褒めたり、ごますったり、なだめたり、流したり、馬鹿にしたり、嗤ったり。

そうやってコミュニケーションにおける、上下を作る競争がダメだ。

 

だから、「会社」というものに多分絶対ハマる事が出来ないと思っていた。

 

「会社」ってのは、そういうマウンティングが巧いヤツが上にいるから、きっと自分はずっと使われるだけの消耗品になるんだろうなと、嘆いていた。

 

上司が変わって、何故か認められて、何故かやたらめったら重宝された。

結果、周りが変わった。嘘みたいに変わった。

 

周りを見渡すと、私みたいにマウンティングが苦手だから実技や稼働速度を意識して生きてきた連中も、楽しそうにしていた。

 

上司にドン引きしつつ、本気ならこの人はきっと凄いと思った一言は

「この部署の誰よりも多分私が一番出来ます。だから腹を括りました。」

だった。

 

どんだけ自意識過剰なのかと驚いたが、結局その人は逃げないで全部やり切った。

多分まだ全然途中なのだろうけど。

 

上司はよく私に「凄いね」「やっぱり頼んでよかったよ!」と言ってくるが、そうじゃない。

 

マウンティングが苦手で、社会や会社になんの希望も持たなかった私や私の様な人達の尊いものに価値を与えたアナタが凄いのだ。

 

私たちが欲しかったモノに、価値を与えた。

あなたという人が凄いのだ。

執着が群像に消えたのかもしれない

忘れたい事があって色々始めた。

iPhoneを買って、就職を決めて、結婚して、昇進して、自分の稼いだ金で両親を旅行に連れて行って、引っ越して、本を作った。

 

忘れたかった事が夢に出て来なくなった。

 

最期にみた夢は、酷く悲しいけど、普通に考えたら間違っていない夢だった。

 

あれから、私は職場も変わって、与えられる言葉も変わって、失った自尊心を取り戻したような気がした。(が、そういう話の手前の話で今普通に辞めたい)

 

久しぶりにその顔を見てみた。

デジタルの記録で眺めては、いつも沸いた何かしらの感情が、沸かないと判った。

 

多分、ここでも何度も嘘をついた「忘れた」という事を、ようやく半分くらいそうだと理解した。

 

わざわざ。

忘れたと言いたいなんて結局覚えているものだ。

 

今は、忘れてはいないけれど、激情のナニソレや、圧倒的な希望とか。

そういう事がその発想根本的に懐かしいと。

思える程度に多分歳を取ったし、取ってしまったんだと。

 

iPhoneを買って、就職を決めて、結婚して、職場で胸ぐら掴み合う喧嘩をやって、救われて、ちゃんと認めてもらって、辛くて告白して、相手を巻き込んで、成果を出して、昇進して、自分の稼いだ金で両親を旅行に連れて行って、引っ越して、今にも死にそうな祖母に絵を描いてやるって言ったら「18のアナタが描いた絵だから意味がある」とか言われて、夢を喋って夢を聞いて本を作って、世界を眺めていいのかどうかとか悩んで、やっと母校に笑いながら行ってラーメン食べました。

 

そういう事を振り返って今その顔を見て、群像の中に一人になったかもしれないのかもしれないと。

 

あったことは消せないけど、あった事は消せないけどそうだなと思い耽った。

 

貧困を恐れる

金を食べている音がする。

その資本を嗤いながら食べている常識という音がする。

侮蔑して、嘆く。

 

金を食べて夢を叶えた話を聞いた。

見た事が無い貧困で人が死んだ話と同じくらいの感情と涙が湧いた。

 

沈む船から降り続け、沈む船体より荷物の重さを量り、そうやって豊かさを追ってしか生きていけない程きれいじゃない自分の人生を嘆いた。

嘆き過ぎて知恵熱を出して身体を壊した。

 

私は私を侮蔑する。

そして絶対的な貧困がまだ夢の話だと願ってる。

山を見せたい

年末に実家に戻った折、永い事大好きだった裏山を伴侶を紹介しようと連れて行った。

雪が深く、何もかもが白く、枯れて、音の無い。

大好きな景色だ。

 

結果を先に言おう。

連れて行けなかった。

 

詳細はこうだ。

私の大好きスポットに連れて行くには、裏山の川を越えなければならなかったのだが、この年に限って大豪雪が起きてしまい、遊歩道が埋まってしまっていた。

それでも何とか連れて行きたいと、川を越えようと川に降りてみたが、逆に死ぬかと思うサバイバルを経験した。

 

端で話せば、要はアレだ。

川を越える為に、川に降りたら雪に登れず、遭難するのかもしれない。

デッドorアライブ!!?

 

という。

 

自分がホイホイ愛した景色がそんなヤバめな世界だったとあんまり信じたくないんだが、結局伴侶には美しい真っ白でまっさらな裏山を見せてやれず、結構盛大に落ち込んだ。

 

そもそも何で裏山に川があるんだよ。意味が解んねえよとか本気で腹が立ったが、そこ含めての大自然だと思いなさい私。となだめた。

 

今年はじゅんぐりで夫の親族の手前、帰省は難しいだろうがいつかあの美しい名前のない山を見せたいと思う。

私の故郷は名前が無い自然で、名前が無い雪山だ。

なんなら殺人が起きたらしい。酷いな!

 

でも美しい。美しかった。それを伴侶に絶対に見せたい。