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義理と希望と真理

今所属している会社をポジティブな理由で辞めた方がいいと思う事がままある。

 

唯一辞められない希望みたいな部分が、直属の上司があまりに出来た人間だからだ。

この人がいるのなら、居続けるのなら。

という希望と

この人のおかげで、この人が頑張ってくれたおかげで。

という義理で

辞められない。

 

結構散々な目には多分あってきた。

事実を知らないのに斜め上の叱咤をされ、小首を傾げながらのデスクワークは肩もこる。

あらゆる性的な面倒を知っている彼らに取っては、ひとつの若さが総てそれに見えた事も、今こうやって、認めてくれた人がいる余裕を持てば理解出来る。

散々な目も、たった一人の上司のおかげで笑い飛ばせる程度に成長出来た。

 

だから、散々な目にあった事で辞めたいわけでは決して無い。

ただ、その上司がそこまで引っ張り上げてくれたという事は間違いない事実で、いや当然私もそれに相応しい努力はしたが、きっかけの総てはやはり上司だと思う。

 

上司が作る組織で、同じ様な幸福の感覚値の組織で、好き勝手にやれたらきっとずっと楽しい。

 

でも、上司に私の人生のドキドキの総てを預けるのは余りに迷惑な話だと思う。

だから、どうしたらいいんだろうと。

 

人々は好きで、素直に感謝も花束も愛も伝えても許される組織だけど、もっと楽しそうな事が見えてしまえばそれを望むのは難しい。

 

上司はいじらしいほど一生懸命で、疑う程まっさらで、時折黒い発言をする人間らしい社会人で、最も信用できる。

 

辞めるべきか辞めざるべきか。

去年の夏の占いでは、今年は転職すべきと出ていた。

心ならUSBメモリ

そういえば昔、自分の記憶を全部まるごとUSBハイビジョンで記録しておきたかったなと熱望した事があったなと、二年前のYUKIちゃんのLIVE映像を観て思った。

 

YUKIちゃんクッソ可愛い。

 

当時、の自分っていうのは、自分の肉体を自分でコントロール出来るという事は、「すげえ!どんな魔法使いだ!」という発想だった。

辛い時も苦しい時も、未来に向かって鞭を打ち続ける。

それが私にとっての、「自分をコントロールする自分」だったわけで。

 

流石にそれを熱望してから数年経って、へえへえ気付いたのが、コントロールする相手が凡庸である以上、管理する側も相当面倒だぞ。という事だ。

 

世界征服は野望では出来ない、理想でさえ危うい。

義務や、なんなら運命で、初めてやらざるを得ないのが世界征服で、ミニマムに考えて人を管理する事だ。

 

管理が業務だけなら全然楽だ。人間だ。イチ人間の全部で人格で、人生だ。

責任は誰が持つんだ。管理され管理する、この私だ。

 

記憶はUSBで残せた方がいい。こうやって、酔っぱらった時にふうっとスロットに指して思い出せるんだから。

でも同じ意味で、外付け記憶に出来れば突然手を止めたり、妙な時に思い出したりしないで済むなと。

 

世界征服を渇望しそうにもない顔面造形で鈍く笑う。

共通価値ではないエゴを

あらゆる憧れに意味がなかったとうなだれて、失望や絶望の感覚は薄れて、ときめきの記憶だけが胸に残った。

 

どきどきやワクワクは、多分、生計の外側に確かにあったものだった。

 

血反吐を吐かなくても金は稼げた。

頭の悪さを嘆いて努力を続けなくても仕事はもらえた。

生きる事に必死にならなくても、死なずに生きている。

 

趣味といわれる事が、何かを諦めた様に聴こえて嫌いだった。

それで生計を立てなければ意味がないという呪いから長い間醒める事が出来なかった。

 

共通価値とトキメキを切り離してやったら、いくらでも世界は広がった。

 

やっと「ああ、死ななくてもトキメキを追ってもいいんだ」と理解した。

それの名前が趣味というものならば、好きに呼べばいいと腑に落ちた。

 

続かなくても、生活にしなくても、たった一度でもいいやりたい事は全然まだまだやっていないから、人生残り多く見積もって60年?70年?

 

足りないなあ。

マヤ的思考

久しぶりにガラスの仮面を読んで、紅天女の台詞解釈のくだりで

亜弓さんは役者として、説得力を持ち、解説を含めた役者としての思考で台詞を読み

マヤは紅天女として、まんま台詞を読んでいた。

というのにひっかかった。

 

学生の頃、卒業制作で一本思いっきり映画を撮ってみた。

テーマに教授の意見は盛り込んだものの、途中からは好き放題やらせてもらい、諸事情(編集で盛大に失敗したから)でお蔵入りにはなったものの、凄く楽しかった思い出がある。

 

そんな折、役者に言われた言葉を今でも大事にしてある。

「ねえ、この台詞はどういう背景で喋ってるの?」

 

役者はストーリーにおける気持を観客に説明する責任がある。

ストーリーを進めるのは演技で、演技から生まれる感情だからだ。

だから、観客に持たせる感情を沸かせるために、説得力が必要なのだ。

その為には、自分でそれを説明出来なければいけない。

理解しなければいけない。

 

私が脚本を書いた時、あらゆるものは、ただそれだけのそれでしかないモノだった。

だから説明を求められた時、「いや、それでしかない」としか言えなかった。

結果まあ深みがない作品になったのだが。

 

卒業制作で演った映画は、井伏鱒二山椒魚だったのだが、これを足を不自由な男が山小屋に閉じ込められて、小間使いの女を手込めにする話とした。

 

しかし本当は「人間である」という説明をぼかし、山椒魚山椒魚で、カエルはカエルで、川底は川底でやりたかった。

 

しかし、そこにおける説得力という発想が、言い切るという力が無く、致し方なく「説明」として人間にした。

 

教授に言われた「だって、山椒魚は喋らないでしょ」という、大変当たり前のご指摘にその内解答出来る力が欲しいと、多分まだまだ思うんだろうな。

 

 

ああ、そう。だからあのシーンのマヤの発想は、初見「ふーん」二度目「わかるー」三回目「でも、それ説得力ないからな」と、時代を経て今「そこをマヤは凌駕できる表現力があるんだよなー」という形で落ち着いている。

 

マヤのズルい所は表現力の方なんだよな。ズルい。

100PVを越えました。

本ブログに、「100PVを越えました!」というお知らせが来ており、一体誰がこれを見ているのかと、本気で驚いた。

 

こちらのブログはタイトルが無い。

ついでにどこにも宣伝していない。

更にトレンドな話など一切していない。

日記だからな。

 

つまり誰かがナニカでうっかり迷い込んできてしまった可能性が一番多いのだけれども、それにしたって今月なんでそんなに迷い込んできてしまったのか。

 

と、モヤモヤしていたんだけど、かなり昔の記事が音楽とか映画とか食べ物とかなので、それかな。と一旦オロオロする気持を落ちつかせる事にしました。

 

見られて困る様な事は書いていない筈だが、そういう事もあるのだなと、もう少し見栄えのいい話でも書かねばなるまいなと。

 

少しばかり反省しました。

大体ポエムか散文ばかりだからな最近は。

具体性を帯びていないあらゆる経験論はお前の空想だ

まるでドラマだな。

 

そう思う人間ってのは割といる。

台詞みたいに言葉を喋るヤツ。物語みたいに事実を語るヤツ。

 

嘆かわしい程バレバレなのは、具体性が無い経験の先の展望を話す人間だ。

 

「おおきな事」

「しっかり」

「常識」

 

言われた次にプランが食べられてるって裏話を聞いたら、何を信用しましょうか。

 

君の具体的な話を聞こうか。

コレをどうやって、何をしようか。

 

根性論は愛おしい。

根性論しか無い状態は見苦しい。

 

具体的な話をしよう。

その責任の所在故の、君の立場だ。

その権力だ。

背景の無い説得力とやらを今だに探している

漫画やドラマでよくある、勤怠が悪いのに結果だけ出せるヤツ。

 

30よろしくでそれは、ほとんどないと解る。

フリーランスはまあ、あるかもしれないけど、必要最低限だけで結果が出せるという程、人間ってのは進化していないって思う。

 

目の前の情報を、経験だと思う。

経験を絶対だと思う。

それが常識だと勘違いする。

 

本よりも目の前の方を尊ぶ。

活字よりも、目の前の方がリアルだと思う。

 

ある時、それは正しくて、でもそれだけの場合、美がどこにもないことになる。

 

どこまでも果てしなく抽象的である美そのものの形の価値は本来ない。

でも、作者のバックボーンに左右される物語性からの美とか、そういうのは、では文化を観たらいいんじゃないのかなあ。と思った矢先。

 

ああ、アイドルってそういうもんなのかあ。

って気が付いて。

 

あ、今日の日記散文だ。酷いな。

と、気付いた。

 

眠い。

 

孤独で人がしぬもんかと。それで死んだヤツらにずっと言いたいんだよ。

 

しぬもんか。しぬんじゃないよ。たかが孤独で。

 

たかがだ。

ナニカを圧倒的に切り捨てる、この言葉が暴力的で大嫌いだ。

でも、たかがの孤独だ。

 

電気よりはるかに、そんなモンだ。