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狭小と矮小

二つとも、小さく狭いイメージの言葉であるのだが、私は長い事「矮小」を使っていた。

意味合い的には、大体器の小さな、物事を頭ごなしに決めたがる、そういった手合いの人に対し、

「矮小な(考えの)人間だ」

という意味で使っており、恐らく間違ってはいないだろう。

 

だがしかし、この「矮小」の「矮」が長い事なんだか解っていない事に気がつき、恥ずかしいと思い、解り易い他の言葉はないのかと調べた所、「狭小」という言葉がある事を知った。

 

それでまあ、「矮」より「狭」の方が俄然意味が分かるなと、以来「狭小」をよく使う様になった。

 

所で、この「矮小」の「矮」という字には「曲がって低くなった」という意味合いがあるようで(さらっと調べたので詳しくご存知な漢字マニアがいるのなら、色々聴きたいものではあるのだが)という事は「矮小」というのは「狭小」よりももっと非難めいた言い方なのかと、ふと疑問に思った。

 

よく善い意味で人を褒めるとき「実直な」とか「素直な」とか「直(真っすぐ)」使うのだから、人格を指す時に「曲がる」では、良い意味には聞こえない。

「性根が曲がっている」というのをどこかで聞いた事があったが、やっぱり褒める意味ではなかった筈だ。

 

大陸の人々にしてみれば「狭い」という事だってよっぽど恥ずべき事の様な気がするが、そもそも狭さと常に隣り合わせで生きてきた我々日本人にとって、狭さというのはそこまで恥ずべき事なのか、よく解らない。

 

ともすれば、私が「度量や器や発想や想像力が狭く、小さく、みっともない」と思った時、やはり非難めいているのだから「矮小」の方が正しいのであろうか。

 

言語について考え始めると、何が正解で何が不正解かという事が国の文化や習慣と深く繋がっている事に何度も気付く。

そうした事に気がつくと、「ははあ、あまりに突拍子もない言葉は吐けぬなあ。やはり国語で精一杯だ」という結論に行きつく度、私の言語への情熱はなんて狭小なのかと嘆きたくなる。

 

ウマいオチを付けたかったんだが、こういうわざとらしいのを書くのは結構恥ずかしい。