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芝居じみた人格

先日

「お前さんはどうしてそう、芝居じみた人格なんだ」

と言われた。

 

実を言えば、そんな事を言われたのは一度や二度ではない。

喋り方がどうとか、挙動がどうとか、そういう話ではなく「まるで、漫画か小説か、物語から出てきた様な人間だな。君は」と何度も言われた事がある。

それを大体は、「君の様な人間は観た事が無い。」と希少が故に個性的であると賛辞だったと思うが、侮蔑まじりに言った人もいるだろう。

 

人格形成に難ありなのは、本人が一番解っている。

別に演じている訳でも、人生という名の芝居を打っているつもりもない。

勝手にそっちがそう思うんだ。こっちは至極真面目に真っ当に生きているだけなのに、なんでだって、そんな風に思うんだ。

無礼千万甚だしい。

 

と、怒り狂う事も出来るのだが、最早他人の思考が己の怒り一つでどうにもならない事も解っている年齢になっている。

だので、思う事は一体全体私のどの辺りが芝居じみており、生身の人間に見えないのか。

生身の人間に見せるには、一体全体どうしたら良いのだろう。

早く人間になりたい。(妖怪人間)

というもう少し、具体的に努力出来る方向への考察である。

 

一つ思い当たる節があるとしたら、私は幼い頃、相当な引っ込み思案で、人見知りが激しかった。

とにかく人と関わる事が怖かったもんだから、人と関わらない遊びを好んでしている内に、あらゆる情熱の方向が、物語へ向かい、道徳も感情形成もそこで学んでしまった。

本来ならば、それは生身の人間同士の関わり合いで知るべき事だった筈なのに。だ。

 

物語の道徳は誇張表現を常にしている。

演出している。

そうしなければならないのだ。だって物語なのだから。そこにはエキサイティングがなければならない。

誇張表現ってのは、一番解り易いエキサイティングだ。

だがしかし、現実そこまでやってはならぬだろう。

そして私は長い事、そこの誤解をし続けたまま道徳が固定してしまって今に至る。

 

懐かしい物語の顔ぶれは、今でも旧友と同じ様に思い出し、変わらぬ笑顔で語りかける。

 

つまり、私自身が物語の人間と生身の人間の区別がついていないのだ。

私にとって、物語の人間も、街をうろつく人間もどちらも変わらず人なのだ。

いいや、もしかしたら、心境までつらつら描かれている物語の人間の方にもっとずっと人間らしさを見ているのかもしれない。

 

という事に気がついて、何て薄気味悪い人格の持ち主かと愕然とした。

 

そりゃあ生活だって芝居じみるだろう。

私は物語と生身の境界線を行ったり来たりしながら生きているんだから。

そりゃあ、生身の世界で生きる人には薄気味悪かろう。

 

どうやってここから足を洗ったらよかろうか。

結局他人と関わる他ないのだが、この芝居じみた人格を薄気味悪く思わず付き合ってくれる人間の方が珍しい。

そういう人と関われた時、私は大層ありがたいと思い付き合っている。

感謝の気持ちを忘れてはいけないなと、改めて考えるが、その程度でそこまで思われたらたまったもんじゃない気もする。

あまりに恭しく付き合いを持とうとするのもよくないなあ。

程々にせねばいかんなあ。程々というのは難しい。

 

そうやってまた我が身の立ち振る舞いを反省したりもする。

 

今後も結局そうする他ないのだろう。

そしていつか私も生身の人間っぽくなれるのだろうか。

そうして、いつか生活から物語が消えたとき、私はどうやって物語を眺めるんだろうか。

 

それは何だか少しだけ楽しみな様で、旧友の顔を忘れてしまうのかもしれないと思うと、少しだけ寂しい気もする。