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無知と既知で既に選択だからそれ以上は多分いらないだろうという結論。

よく

「何かを手に入れるためには何を棄てなければならない」

という話を聞くが、それは正味な話、ありえない。

とても好きなものを10個も100個も抱えられる人だっている。そのロジックは洗脳に近いし、そうすることが出来なかった何かに特化したクズの言い分に聞こえてよろしくない。

愛する人を棄てて、名誉を手に入れたとすれば、お前の愛はそこまでだった。という話でしかない。と、今はそういう様に信じたい。

だから上記のロジックを長い事「そういうもんなのか。何か棄てるほどの選択など私には出来やしなそうだ」と頭を抱えて悩んでいたが、そうしなくても別に良いんだと最近やっと信じる事にした。

 

そこまであらゆる事に、(卑屈になって酷い事をいえば)狂った様な選択など多分自分のチキンハートでは土台無理なのだ。

 

ただし、知らない事を知るという事は、知らないを棄てる事になり、

知るという事は、物事をどこまでも狭く小さな可能性の限りを生むものにしてしまう

詳しければ詳しいほど、奥の奥までしれば知るほど、可能性は消失する。

 

そればかりは、意識や決意の外側の話であり、生きる活動の一片を間違いなく担っている。

 

知る事の素晴らしさを、見識の深さを、そして広さを、決して陥れたい訳ではなく、「知らない」という状態が、どれ程の情熱や夢や希望や期待やワクワクばかりを生んでいたのだろうかという話で。

 

無知は希望だが全知は多分絶望的なつまんなさなんだろう。と思う。

あらゆる事を知っているという事は、では足りないものを補う創造性が働きやすいかと言われると、決してそうではなく、膨大な情報の海から蟻の様な進化の点など、どうやって見つければいいのだろうか。

 

とはいえ有能なのは全知で、無能なのは無知である。

 

かかる言葉が社会的に利用出来るかどうかというのに今気付き、うわあ。漢字おっかねえ。と思った。

 

無知は無能だ。でも、知らないがあるだけ明日が毎日楽しい。

一人なら、無能だろうが楽しい方を選びたいが、一人ではないのだからそうも言ってられない。

 

知らないの話は、もう少し多分考えたい。

 

そういえば、ポストウォーベイビーの未知と既知の話もそういう事言ってんのかな。と今書いてて思った。

 

 

てってれー