純粋なディスコミュニケーションに笑えばいいよ悪人よ

齢、たかだか30はまだいかない自分だが

心から笑ったディスコミュニケーションが唯一あった。

 

それまで、ディスコミニケーション(後述ディスコミ)は諦めと、見え透いた解りよい他者でしかなく、

笑える、は、笑う他ない、悲しい関係性の事実でしかなかった。

 

しかし、だがしかし。

たった一度だけ、恐らくその一瞬だけ、そのディスコミは笑いとなり、私は笑い、アナタも笑い、そしてそのコミカルな会話は誰かを笑わせた。

 

素晴らしいディスコミだったと、今だ、思う。

 

純粋な疑問と、自意識は恐らくディスコミを生むだろう。

そして、間違いなくそれは嗤いになる他ない。

ディスコミの正体が諦めと、嗤う他ない関係性の事実だけなら。

けれど、互いどころか、周りまで笑った事実があるのなら、人間味までどうにも馬鹿になどしてはいけない。

 

こころから、違った常識をどうぞ笑い飛ばせるどころか、周りまで巻き込んで笑いに出来るなら、それはどれ程痛快で愉快かと。

 

いつもふと、たまに思い出す。

 

あれはとても笑える会話だったと。

痛快で愉快でたまらない会話だったと。

 

楽しかったねと。思い出す。

ギャングの様な会話である。

 

そういえば、私はギャングに憧れた日もあったなと思い出す。