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繋げる言葉

「その人は悔やんでおりますよ」

という言葉に、中の感情を思う時は、結局自分のウンコを思い出すしかない。

 

引用は、ウンコの話をするとき、人は自分のウンコしか思い出せない。からである。

 

感情をウンコと同意義にするのは、いささかどうなんだろうと思うのだが、何かを包括した巧い具合のいい塩梅の言葉で感情を表現したとき。

 

それは己の苦悩と同意義かどうか、伝言ゲームの場合はいつも考える。

 

ヤバいです。

炎上です。

絶望です。

もう何も手がありません。

 

我が身をそこに投じてみたとき、そうでもない事はいつだってままある。

 

悔やんでいる。

その言葉がその通り、私の望むその通りの言葉であればそれでいい。

だがしかし、そうではなくなった日本語を眺めて。

 

言葉が今ここにある、そのソレが総て同意義ではなくなった言語において、

言葉に依った嘘くさいのサービスは、そりゃあ横行するよな。

 

どうしてこんなに皆病名をつけたいのだろうかとか。

多忙そのものではなく、言語に依っていたりはしないのだろうかとか。

そして、自分の言語にそれをすり替えて救いを望んでいたりとか。

 

今日、占い師からそんな最大公約数の言語の紡ぎを聞いて

薄ぼんやり日本語について考えた。

 

ちなみに、それを思う心があるので、巧い具合に聞く側のチューニングを合わせて、占い師の言葉でテンション爆上げする事だってきっと出来る。

それがたかが数千円でモチベーションが買えるなら、このご時世安いものだ。