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マヤ的思考

久しぶりにガラスの仮面を読んで、紅天女の台詞解釈のくだりで

亜弓さんは役者として、説得力を持ち、解説を含めた役者としての思考で台詞を読み

マヤは紅天女として、まんま台詞を読んでいた。

というのにひっかかった。

 

学生の頃、卒業制作で一本思いっきり映画を撮ってみた。

テーマに教授の意見は盛り込んだものの、途中からは好き放題やらせてもらい、諸事情(編集で盛大に失敗したから)でお蔵入りにはなったものの、凄く楽しかった思い出がある。

 

そんな折、役者に言われた言葉を今でも大事にしてある。

「ねえ、この台詞はどういう背景で喋ってるの?」

 

役者はストーリーにおける気持を観客に説明する責任がある。

ストーリーを進めるのは演技で、演技から生まれる感情だからだ。

だから、観客に持たせる感情を沸かせるために、説得力が必要なのだ。

その為には、自分でそれを説明出来なければいけない。

理解しなければいけない。

 

私が脚本を書いた時、あらゆるものは、ただそれだけのそれでしかないモノだった。

だから説明を求められた時、「いや、それでしかない」としか言えなかった。

結果まあ深みがない作品になったのだが。

 

卒業制作で演った映画は、井伏鱒二山椒魚だったのだが、これを足を不自由な男が山小屋に閉じ込められて、小間使いの女を手込めにする話とした。

 

しかし本当は「人間である」という説明をぼかし、山椒魚山椒魚で、カエルはカエルで、川底は川底でやりたかった。

 

しかし、そこにおける説得力という発想が、言い切るという力が無く、致し方なく「説明」として人間にした。

 

教授に言われた「だって、山椒魚は喋らないでしょ」という、大変当たり前のご指摘にその内解答出来る力が欲しいと、多分まだまだ思うんだろうな。

 

 

ああ、そう。だからあのシーンのマヤの発想は、初見「ふーん」二度目「わかるー」三回目「でも、それ説得力ないからな」と、時代を経て今「そこをマヤは凌駕できる表現力があるんだよなー」という形で落ち着いている。

 

マヤのズルい所は表現力の方なんだよな。ズルい。