私を嫌いな人種を考える

私。は私をかなり考えている。

私が楽しいとか、幸せとか、辛くないとか、そう言う事は殆どジャッジの最後の方にある。

人に迷惑をかけないこと。傷つけない事。集団の利益に成る事。

これを前提とした、その上での私がいる。

 

つまり私の幸福は、私をとりあえず置いて置く事から始まっている。

そしてそれを不幸だと嘆いた事もあったが、最早これが私だと。
受け入れてしまった。

 

そして、私は私が嫌いな人種も当然いるという事を知っている年齢に成っている。

それを嘆いた事もあったが、20代後半は「まあ、いるだろう。そういうヤツも。」となって、今は「どこが嫌なんだろう」に至る。

 

悲しいから改善したい訳ではなく、私の幸福への理念に反しているなら

改善すべきだと思った。

まあ、「顔が嫌い」とかそういう理由の場合、整形と秤にかけて大体は「彼の人に好まれる為に、この顔面を改造するのは不可能だ」となるのだけれど。

 

それはひとつ、私は私主体となって独善的によくなってしまう。

例えば、具体的に、期待される事が私は嬉しい。

だから、人を紹介する時、期待を持って欲しくてついつい煽ってしまう。

結果、その人に過度なプレッシャーを与えていると、物怖じしない後輩にたしなめられた。

素直に、「なんて自分はデリカシーがなかったんだ」と猛省した。

本当にアレは、自分勝手な行動過ぎて恥ずかしかった。

 

きっと私の事が嫌いな人間は、私の土台の幸福に対するモノサシが結局私の独善性からのモノだと解ってしまい、それが偽善的に見えて嫌悪するのか。と、思った。

 

この歳で、私を嫌いな人をイラッとさせる部分に、正直にストレートに突っ込んでくれるこの後輩を、私はとてもありがたく思う。

 

色んな人がいると、また解らせてもらえるのは、未熟な自分にとってとてもありがたい。